たどり着いた医師キャリアの
真ん中
「末延(すえのぶ)」という姓は,全国におよそ960人いるそうです(名字由来Net.より:前回の調査より増加中)。瀬戸内海に面した地域に多いようで、私の出身地も瀬戸内・周防灘に面した大分県の香々地町という町でした。平成の大合併で町名が無くなり、「豊後高田市」になりました。今は「昭和の町」「住みたい町」として有名ですが、私は北部にある長崎鼻で夏休み中海水浴をし(当時は無料)、西日本一の夕日で有名な真玉海岸を見ながらバス通学していました。
高校まで田舎で過ごした私が医師を志したのは、当時「不治の病」と思っていた「がん」を一つの薬で治す事を夢見たからで、幸い一番近くの医学部に入学でき、その後臨床実習で子どもの純粋さと小児がんの存在を身近に感じて平成2年に小児科学講座に入局しました。
入局後、臨床研修と基礎研究を国内留学という形で実現する事が出来ました。少ない医局員数にもかかわらず、私の研修を応援して下さったのは故・小川昭之教授、故・石原高信先生でした、また後藤一也前院長が当時の大分医科大学医局長として調整して下さいました。久留米大学での臨床研究のほか、中畑龍俊教授、須田年生教授、高倉信幸教授に師事し、基礎研究の重要さを認識しました。
血液専門医と小児神経専門医を有している私は泉達郎前教授の後押しもあり、がんの臨床研究と神経疾患の診断治療を並行して行っていましたが、「神経線維腫症1型」という疾患の腫瘤(こぶ)が一つの内服薬(セルメチニブという薬です)で治療ができることを知りました。関係者と長時間議論し、大分大学が日本のわずか4施設の一つに選ばれました。治験では多診療科・多職種また院外の部署との連携が極めて重要という事を学び、そして一つの薬で病気を治すという夢の一部が叶いました。
そして私は2024年10月に西別府病院の病院長を拝命しました。管理職の立場となり、診療や研究、教育に加えて病院全体で「楽しく充実した医療と福祉の提供」を取り組む事を私のBEPPU Dreamに決めました。
私は12歳で父を、三十代で母をいずれもここ別府で看取りました。井原健二教授がご高配くださった今回の西別府病院への赴任は、両親の導きなのだなと感慨深いです。自身の医師キャリアの真ん中(センター)をBEPPU Dreamに置いて同僚や近隣の先生方と一球入魂で頑張ります。