たどり着いた医師キャリアの
真ん中
「末延(すえのぶ)」という姓は,全国に約960人いるそうです(名字由来Net.より:前回の調査よりやや増加!)。瀬戸内海に面した地域に多いようで、私の出身地も瀬戸内・周防灘に面した大分県の香々地町という町でした。
平成の大合併で私の生まれた町名は無くなり、「豊後高田市」になりました。合併してもやっと人口2万人という小さな市ですが、「昭和の町」「住みたい町」として今や有名で、私は夕日の美しさで有名な真玉海岸を見ながらバス通学していました。
高校まで田舎で過ごした私が医師を志したのは、当時「不治の病」と思っていた「がん」を一つの薬で治すことが出来ないかと夢見たからで、幸いにも一番近くの医学部に入学でき、子どもの純粋さと小児がんの存在を身近に感じて平成2年に小児科学講座に入局しました。
入局後、臨床研修と基礎研究を大分大学医学部と、数か所の国内留学という形で実現する事が出来ました。当時少ない医局人数にもかかわらず、私の研修を応援して下さったのは故・小川昭之教授、故・石原高信先生、また現在私を指導して下さっている後藤一也先生が当時医局長として様々な調整を行って下さいました。
医師キャリア最初の10年で、多くの施設で協力して治療法を開発する事の大切さを学び、治療成績の向上を目の当たりにしました。たとえば、私が生まれた昭和40年代は小児リンパ性白血病が治る見込み(5年生存率)は「10%以下」でした。それが令和では「90%」程度となっています。このような小児がんの治療成績向上を実体験した経験はもうひとつの専門分野にも大きな影響を与えました。
私は「血液専門医」と「小児神経専門医」を有しています。医師キャリア20年頃は泉達郎前教授の後押しもあり、今流行の二刀流を目指して小児がんの臨床研究と小児神経疾患の診断治療を並行して行っていましたが、そこで「神経皮膚症候群」のひとつ、「神経線維腫症1型」という疾患の神経線維腫(こぶ)が一つの内服薬(セルメチニブという薬です)で治療ができることを知りました。
この薬が日本で承認されるためには「治験」が必要だったのですが、大分大学が治験施設として受理されるように関係者と長時間議論し、結果として大分大学が日本のわずか4施設の一つに選ばれました。医師キャリアの30年頃にこの治験を実施しましたが、その過程で多診療科・多職種また院外の部署との連携が極めて重要という事を実感し、一つの薬で病気を治すという夢の一部が叶いました。
そして私は2024年4月から西別府病院に勤務しています。医師キャリア35年目です。
管理職の立場となり、前記の二つの専門医としての刀に加えて病院全体で「楽しく充実した医療と福祉の提供」をもう一つの刀と決めました。私は中学生の時に父を、医師になって母を亡くしましたが、二人ともこの地・別府で看取りました。井原健二教授がご高配くださった今回の西別府病院への赴任は、両親の導きもあったのだと考えています。
別府で三刀流。別府八湯を眺めながら、三つの刀を振るいたいと考えています。自身の医師キャリアの真ん中(センター)が今ここにあります。